最近コーエーの三国志Ⅷの武将ファイルを見ていて気になったのですが、「田与」なる人物が居ますがこいつは何者なんでしょうか?
武将の説明は演義における「田予(田豫)」の行動と同じことが書かれていますが、演義にも「田与」なる人物は記憶では登場して無いと思います。
武将能力としても
田与・・・武63、知58、政62、魅58 相性28で非常に曹家寄り、登場年は222年(誕生年は198年)
Ⅸには田豫が出てきていますがこいつは
統76、武71、知78、政74 相性75で劉備と最高、登場年189年
と全く別人のように描かれています。
顔グラもⅦ~Ⅸは大したこと無いレベルの武将は使いまわしになっているのに田与と田豫では違っているので別人だとしたら、この田与ってなんなんでしょうか?
吉川英次氏が生み出した楊平や陳嬉のように、コーエーが勝手に生み出した人物なのでしょうか?
『三國志』は、代を重ねてる都度、各登場武将の能力値等が、『演義』から『正史』寄りに成って行きます。田与と田豫が同一人物で有れば、この傾向が能力値の遍歴に表れている、とも言えそうです。が、田与と田豫が同作に登場するので有れば、別の可能性を検討する必要が出て来るでしょう。
田与と言う人物にモデルが存在するか、田豫とは違う別人物の漢字間違いの可能性を検証する為、田姓の人物を列挙してみます(有名な田姓の人物、田疇・田豐は除外)。
◇田楷(不詳~西暦一九九年)
青州刺史。公孫サン[王+贊]の命令で劉備と共に袁紹と戦う。青州刺史職を失うが、曹操から再度青州刺史に任命される為、曹操寄りの人物か。生年・没年は不一致。
◇田樂(不詳~不詳)
西暦二一五年、病死した韓遂の首を斬り、曹操に送り届ける。曹操寄りは合致するが、登場年が不一致。
◇田銀(不詳~不詳)
西暦二一一年、曹操に背いて河間郡で叛乱を起こす。曹操から遠く、登場年も不一致。
◇田韶(不詳~不詳)
西暦一八九年に遼東太守と成った公孫度に処刑される。曹操との接点が粗皆無で、登場年も不一致。
◇田續(不詳~不詳)
田疇の従孫で、魏帝国に仕える。西暦二六三年、蜀帝国侵攻に従軍。曹操寄りだが、活躍時期が不一致。
◇田彭祖(不詳~不詳)
田豫の息子。八十二歳で死亡した田豫の跡を継ぐ。曹操寄りで、登場年に不合理無し。
田彭祖が最も田与に近い人物だと思います(どの様な漢字間違いをしたら田彭祖が田与に成るかは不明だが…)。田与の誕生年・登場年を父親田豫の経歴と照らし合わせても、特に不都合な点は見られません。
私の完全な推測ですが、田与は田彭祖で、田豫の息子故に解説が類似したのかも知れません(開発側は、田豫の息子の存在は知っていたが、名前は知らなかった為、田豫を連想させる田与と名付けたのでは)。
開発側は、当初は田豫のつもりで田与を制作し、次第に『三國志』の事情に通じ始め、田豫を正確な情報を基に再制作したが、元の田与の記録を消し忘れ、同作に田与と田豫が登場する事態が発生した…と言う可能性も有るかと思います。
実際は田豫と同一人物。
演義では田豫の事績にはない、襄陽への派遣の場面があるので制作の過程で別人扱いに(勘違い)されたのではないでしょうか。
ステータス的には『曹叡の命で襄陽へ向かっただけの人』という扱いのように思える(=演義での事績だけ抜き取られて作られた)。
なので襄陽派遣の234年時で壮年に合うように年齢も設定されてる。
KOEIのミスから生まれた架空の武将かと思われます。
田豫と田予は同じ人物です。演義では234年に曹操傘下の武将として襄陽で孫権の侵略にそなえた。としか登場してきませんが、太守になっていたはずです。
若いときは劉備の義勇兵として参加したが、親の看病の為袂を分かちその後公孫サン、袁紹、曹操と主を変えています。
世渡り上手と言ってしまえばそれまでですが、曹家3代に仕え信頼されていたようです。
補足について
「予」と「与」の漢字を見誤っていました。すいません。私も本を調べてみましたが、田与という人物には出会えませんでした。
力になれずすみません。
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